キヨミはただ読書が好きなだけだった。
毎日、家で本を読むことが出来れば、それだけでよかった。
小学生低学年ではデュマやマークトウェインの小説を読み漁った後、ヒュー・ロフティングのドリトル先生シリーズに夢中になり、シートン動物記やファーブル昆虫記を通じて生き物にも興味を持つようになった。
キヨミが生まれ育ったのは東京の都心。自然環境に触れることが少なかったことは、キヨミの中で、生き物の世界への想像力を膨らませることになった。
学校も好きだった。学校で勉強したことは、キヨミの想像を膨らませ続けた。成績はいつもトップ。目をキラキラさせて授業に参加するキヨミのことを、誰もが、「優秀な子」と言った。
想像の世界にいるキヨミはキヨミのままでいられた。生き物に囲まれて、学校で習ったことや、本で学んだことを、生き物たちに教えている想像の世界のキヨミは輝いていた。でも、現実の世界では、キヨミは演じ続けなければならなかった。「動物だってしゃべれるの」って言っても、誰も真っ直ぐとりあってくれなかった。
気がつけば、中学も高校も大学も、自分の意思とは関係ないところで決まっていた。キヨミの希望は、生き物がたくさんいるところで、本を読み続けたい、ということだけ。
でも、そんなたった一つの希望を真剣に受け止めてくれる人はいなかった。成績がトップというだけで、いつも進路は勝手に決まっていた。東京の大学に入った頃には、想像の中で輝いていたキヨミは、いつの間にかいなくなって、演じ続けているキヨミだけが存在していた。
想像の中で輝いていたキヨミを、現実のキヨミは探し続けたが、見つけることはできなかった。想像は想像に過ぎない、ということを受け入れることが出来なかったキヨミは、アメリカに行くことに決めた。
アメリカでは、自分のことを自分で決めなければいけない。周りが何を言っても、自分が最後まで責任を持つ。結果がすべて。そんな環境に身を置いたら、子供の頃の、輝いていた想像の世界の自分が、戻ってくるのではないかと思った。
人生初めての、自分自身での選択。
よく言われる「自分探しの旅」というものに近いかも知れないが、キヨミの場合は、新しい自分を見つけるのではなく、いなくなった自分を見つけることが目的だった。
アメリカの大学で学んだ2年間は充実していた。新しい刺激と発見の連続。知的な会話を好む読書好きな学生たちとの交流。日本にいたときのように自分を演じる必要がなくなり、キヨミにはよい環境だった。
ただ、気がつけば、キヨミはその環境で、別の自分になっていた。キヨミは本来の目的よりも、友人たち同様にアメリカでの成功を求めるようになっていたのである。
そうして、日本に戻るのではなく、アメリカに残ることを決めた。本来の目的は失っていなかったが、アメリカに残った理由は、日本よりもアメリカの環境の方が自分らしくいることができたからだ。
ニューヨークの投資銀行は、信じられないほどの激務だった。仕事の量は多く、求められるアウトプットの質は高く、そして何よりも、邪魔をする同僚が多い。
まるでパチンコの玉になったようだった。すごいスピードで弾かれて、市場に打ち出される。市場に出ると、そこにはポジションがあるが、ポジションの前には障害物がたくさんある。障害物に弾かれながら、どこかのポジションに収まることができなければ、あっという間に一番下まで落下してゲームオーバーだ。
無事ポジションに収まったら、まずはそのポジションを他の同僚から守るために、たくさんの防御を作らなければならない。そしてよりよいポジションを求めるために、そのポジションにいる他の同僚を下に蹴落としていかなければならない。蹴落とさなければ、自分が蹴落とされるだけだ。
気がつけば、キヨミは、アメリカでも、日本にいた時と同じ、演じ続ける自分になっていた。
そんな時にであったのが、彼だった。
カラン カラン カラン
ノブが店に入ってきた。